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大阪・豊楽の道
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大阪第7番
主祭神 生島大神(イクシマノオオカミ)
足島大神(タルシマノオオカミ)
相殿神 大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)
大阪再発見 生国魂神社へ
参拝メモ
[参考資料:『難波大社 生国魂神社略記』当社パンフレット、『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編)平凡社]

生国魂神社(いくくにたまじんじゃ)は通称は「いくたまさん」と呼ばれ、現在の町名である「生玉」とも書く方が大阪人には通りがよい。創建は社伝によれば「神武天皇が東征のため、難波津に上陸した際、現在の大阪城付近(後の石山崎)に生島大神・足島大神を祀られ、国土平安を祈請されたのに始まる」としている。  「延喜式」神名帳には、東生郡「難波坐生国咲国魂神社2座 並神名大、月次相嘗新嘗」とある。祭神の2神はその神名から、国土生成にかかわる神と思われ、平安時代に編纂された『古語拾遺』には生嶋神として「是大八洲之霊、今生嶋巫所奉斎(是れ大八洲の霊、今の生嶋巫の奉斎するところ)」とあり、日本の国土の霊とみなされていた。当社は「難波大社」とも言われ、古代の難波で朝廷との関係は最も深い神社であった。
 当社の本来の鎮座地は上町台地北端、難波宮の営まれた現中央区法円坂付近と考えられる。戦国期には隣接して石山本願寺が設けられたが、1580年(天正8年)織田信長の本願寺攻めにより石山の寺社とともに焼失した。その後、豊臣秀吉により、大坂城の築城が始まり、1585年(天正13年)現在の鎮座地に遷されたと伝えられる。

生国魂神社正面鳥居 生国魂神社拝殿
生国魂神社正面鳥居(左)と拝殿(右)。社殿は1945年(昭和20年)の戦災で焼失、再建後の1950年(昭和25年)のジェーン台風により倒壊し、現在の社殿は1956年(昭和31年)鉄筋コンクリート造りで再建されている。左の写真で拝殿の向こうに屋根だけ見える本殿は「生国魂造」と呼ばれる、独特の建築様式で、本殿と幣殿は1つの流れ造りで葺きおろされ、千鳥破風、すがる唐破風、千鳥破風の3破風をそろえ、豪壮な桃山文化の遺構を伝えている。
境内摂社の天満宮(右)と住吉神社(左) 神社の北側の門
境内摂社の住吉神社(左側:底筒男神・中筒男神・表筒男神の住吉
3神を祀る)と天満宮(右側:菅原道真を祀る)
神社の北門
皇大神宮 精鎮社 稲荷社
皇大神宮。天照皇大御神を祀る。 精鎮社。恵比寿 ・弁財天を祀る。表参道脇の蓮池にあった弁財天社が、地下鉄工事で蓮池が埋められたため、現在地に遷された。 稲荷社。佐賀県祐徳稲荷より分祠。鍋島藩とその蔵屋敷出入りの商家の崇敬が篤く、五穀豊穣・商売繁盛・除災承服の願いが叶う。
源九郎稲荷神社 鴫野神社 城方向(きたむき)八幡宮
源九郎稲荷神社。奈良県吉野の源九郎稲荷より分祠、五穀豊穣・商売繁盛の神。合祀されている八兵衛大明神は芸道の神で、道頓堀中座の閉館に伴い、当社に遷された。 鴫野神社。現在大阪城ホールがある辺りは弁天島と呼ばれ、弁天社(鴫野の弁天さん)が祀られ、淀姫が篤く崇敬し、淀姫没後は同社に合祀され淀姫社と呼ばれた。明治時代に当社に遷され、鴫野神社として祀られている。 城方向(きたむき)八幡宮。大坂城守護神として城の方向(北)を向いたことから、城方向(すなわち、北向)と称する。各地の武将が城へ登城する際には当社に武運長久を祈願したことから、勝運・方除けの神として信仰される。
鞴(ふいご)神社 家造租(いえづくり)神社 浄瑠璃神社
鞴(ふいご)神社。商運・金物の神。ふいごとは火を熾す道具のことで、製鉄・機械工具を扱う金物業界や家庭の台所の神として信仰を集めている。 家造租(いえづくり)神社。家づくりの祖神を祀る全国で唯一の神社。大坂城築城の大事業にも神徳を発揚されたという。 浄瑠璃神社。近松門左衛門を始め、文楽関係諸霊を祀る。文楽はもとより、舞踊、演奏、歌などの稽古ごとの上達が叶うという。
ご朱印
生国魂神社朱印