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大阪第5番
大念仏寺
宗 派 融通念仏宗総本山
本 尊 十一尊天得如来

大阪再発見・大念仏寺へ
参拝メモ
[参考資料:『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編) 平凡社]

大念仏寺は大源山諸仏御念院と称し、開祖は融通念仏の創始者とされ、日本声明学の中興と言われる聖應大師(良忍上人)である。1127年(大治2年)四天王寺に留錫していた良忍の夢に聖徳太子が現れ、これより東南の杭全の里に念仏道場を建てよとのお告げがあり、杭全神社の一宇修楽寺を改修し、鳥羽上皇を本願大施主として建立したのを始まりとする。

第6世良鎮上人の代になり、跡を継承する者がなく、法脈宗宝などすべてを山城・石清水八幡宮に預け、1182年(寿永元年)に没した。1321年(元亨元年)に至り、融通念仏宗中興の祖と称される良尊法明上人石清水八幡の霊告を受けて、法脈を継承したと伝える。

融通念仏宗の本山として大念仏寺が成立するのは江戸時代に入ってからである。1615年(慶長20年)の大坂夏の陣の兵火で堂宇はことごとく焼失したと伝わるが、当寺は元来寺地を固定しない挽道場で、1615年(元和元年)に至り、現在地に定まったと思われる。

1689年(元禄2年)以降住持となった第46世融観大通上人は、融通念仏宗再興の祖と言われ、諸堂の整備や末寺巡回を精力的に実施した。元禄7年に霊元上皇より、宗門再興の功績と徳をたたえ、紫衣を送られ、同9年には壇林及び香衣の勅許を得ている。

1872年(明治5年)融通念仏宗は天台宗所轄となったが、度重なる願書を提出した結果、同7年第53世慈嶺上人の時、融通念仏宗の独立が許可された。

大念仏寺山門 大念仏寺本堂
大念仏寺山門。この山門は現存する棟札から1706年(宝永3年)に大通上人によって創建され、数度の修復を得て現在に至っている。「大源山」の扁額は、後西天皇の皇女宮徳厳尼の真筆。 大念仏寺本堂。元禄年間に建てられた本堂は1898年(明治31年)に焼失、現在の本堂は1938年(昭和13年)に再建された。大阪府下最大の木造建築。
園通殿(観音堂) 霊明殿正門
園通殿(観音堂)。1693年(元禄6年)大通上人の創建。1989年(平成元年)に修復されている。扁額「円通殿」は大通上人の直筆。 霊明殿正門。江戸時代の遺構を残す門は霊明殿と併せ2008年(平成20年)に大修復されている。
地蔵堂 経蔵 霊明殿
地蔵堂。1844年(弘化元年)第52世教彌上人の再建。
本尊の木造地蔵菩薩像は幕末の頃、八尾を中心に河内地区において熱心に布教活動をした楽山上人の作。
経蔵。元禄年間(1688~1703年)大通上人の創建。現在は「なにわ七幸」の霊場として良忍上人像を安置している。 霊明殿。後鳥羽上皇を祀る霊明殿の創建は1156年(保元元年)第3世明応上人の時と伝える。
現在の建物は1930年(昭和5年)に再建され、2008年(平成20年)に大修復されている。
楽邦殿(納骨堂) 鐘楼 宝物館
楽邦殿(納骨堂)。霊骨、胎内仏、水子地蔵を祀る。1998年(平成10年)の再建。 鐘楼。1806年(文化3年)に改修。鐘は同時期に改鋳された名鐘で、従一位右大臣藤原家孝の銘文がある。 宝物館。寺宝収蔵用の建物で展示ホールと収蔵庫からなる。1980年(昭和55年)竣工。
龍王殿 毘沙門堂 南門
龍王殿。「縛嚕拏天(バロダテン)八大竜王」と書かれたのぼりが沢山建てられていた。
縛嚕拏とは、ネットで検索してみると『水天。印度神話時代、夜の神として天界に住していたが後に水神に転じた。水天は水神として水禍の難を除く水天法の本尊として、また請雨の際に修される。』とあった。
毘沙門堂。1125年(天治2年)良忍上人の創建と伝える。現在の堂は1799年(寛政11年)第49世堯海上人の再建。行基菩薩作と伝える毘沙門天を祀る。 南門。元古河藩陣屋門で明治の廃藩後、平野小学校表門として1927年(昭和2年)まで使用。現地には1962年(昭和37年)移築。
境内にそびえる楠木 境内にそびえる楠木 一茶の句碑
龍王殿の横に聳える楠木は大阪市指定保存樹.1968年(昭和43年)指定、幹周6.8m、樹高18.9m。 山門の傍に建つ小林一茶の句碑。1795年(寛政7年)3月27日、一茶はこの寺に参拝し、『春風や 巡礼どもが 練供養』という句を吟じている。一茶が見た練供養とは万部法会のことで、現在では5月に行われている。
ご朱印