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奈良・鎮護の道
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奈良第24番
談山神社
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談山神社摂社・末社
[参考資料:現地説明版、『日本歴史地名体系』(奈良県の地名編)平凡社]

当社は669年(天智天皇8年)藤原鎌足の墓所として創建された寺院であるが、701年(大宝元年)の聖霊院の創建。更には926年(延長4年)に総社を勧請、醍醐天皇より談山大権現の神号を下賜され、この頃には神仏習合の形が確立した。
 多武峰寺は、興福寺とは同じ藤原家ゆかりの寺でありながら対立関係にあり、『多武峰略記』には1108年(天仁元年)、1173年(承安3年)の2度に渡って興福寺衆徒による焼打ちに遭い、多くの堂宇が焼失・損傷したとある。その後も金峰山衆徒や興福寺衆徒の来襲、内部紛争などで度々焼失している。その後、1595年(文禄4年)には寺領3千石が確定。その頃には寺坊は42を数えた。門前町も発展し、多くの参詣人を迎えるようになり、松尾芭蕉本居宣長も当地を訪れている。
 しかし山内では次第に神道勢力が強まり、明治の神仏分離では一山神社となることが決せられ、談山神社となった。

末社・総社本殿 末社・総社拝殿 末社・比叡神社(中央)、山神神社(右)、稲荷神社(左)
末社・総社本殿(国重文)。926年(延長4年)の創建、天神地祇・八百万神を祀る。現在の本殿は1668年(寛文8年)造替の聖霊院(現本殿)を1742年(寛保2年)に移築。 末社・総社拝殿(国重文)。拝殿と神廟拝所の間の広場は蹴鞠の庭と呼ばれ、春・秋の「けまり祭り」でけまりが奉納される。現在は福禄寿が祀られている。 末社・比叡神社本殿(中央:国重文)、1627年(寛文4年)の造立。山神神社(右)、大山津見神を祀る。稲荷神社(左)、宇迦之御魂神を祀る。
末社・神明神社(右)、杉山神社(左) 摂社・東殿 末社・三天稲荷神社
末社・神明神社(右)、天照皇大御神を祀る。杉山神社(左)、久々能智神を祀る。 摂社・東殿(国重文)。旧多武峰寺如法堂。本願堂・定慧堂とも呼ばれ、如意輪観音を安置し、定慧を祀っていた。1619年(元和5年)造替の聖霊院(現本殿)を1668年(寛文8年)に移築。現在は鏡女王・定慧・不比等を祀る。 末社・三天稲荷神社。右より宇賀魂命、菅原道真公、市杵島姫命を祀る。古来、商売繁盛・学業成就の霊験あらたかな社として伝わる。
末社・春日神社 末社・祓戸社 如意輪観音堂
末社・春日神社。東宝庫の横に建つ。覆屋で保護されているが、痛みが激しい。 末社・祓戸社。西入山入口の前に建つ。 如意輪観音堂。如意輪観音像は当社に残る唯一の仏像で、観音講まつりの期間中(6~7月)のみ、神廟拝所で一般公開される。
むすびの岩座 龍珠の岩屋 龍神社と岩くら
むすびの岩座。古来神の宿る岩として信仰されて来た。 龍珠の岩屋。『多武峰縁起』に光を放つ霊石と伝える。 龍神社と岩くら。古神道の信仰を今に残した霊地。

談山神社ゆかりの山
談山と御破裂山の分岐点 談山山頂に建つ「御相談所」の石碑 談山山頂に建つ「談山」案内板
権殿の脇から裏山を5分程登ると、談山(かたらいやま)
と御破裂山(ごはれつやま)の分岐点に出る。
談山は645年(大化元年)中大兄皇子と中臣鎌足とが多武峰に登り、藤の花の下にて大化改新の構想を談り合った場所と伝え、以後この地は談山(かたらいやま)と呼ばれるようになった。
鎌足墓全景 鎌足墓正面 藤原家墓側面
御破裂山には定慧が、摂津・阿威山に埋葬されていた父鎌足の遺骨を改葬した小円墳がある。天下異変の
時はこの山が鳴動し、鎌足の木像が破裂するといわれる。898年(昌泰元年)から1607年(慶長12年)に至るまで
に実に35回の破裂・鳴動があり、慶長の鳴動では全山の松がことごとく裂けたと伝えられる。
古墳の裏側には最近建立したと思われる墓石があった。正面には「藤原家」とあり、側面に藤原鎌足・與志古・不比等・時平の4名の名が刻まれていたが、前者3人と時平(菅原道真を諫言した人物か?)の関連がよく解らない。
境内の歌碑
藤原鎌足の万葉歌碑 柿本人麻呂の万葉歌碑 折口信夫(釈超空)の歌碑
神廟拝所広場の建つ藤原鎌足の万葉歌碑
「われはもや 安見児得えたり 皆人みなひとの
得えがてにすといふ 安見児たり」
 遠藤周作の書
東大門の傍らに建つ柿本人麻呂の万葉歌碑
「久方の天ゆく 月を網にさし わが大君は
きぬがさにせり」
 山岡荘八の書
神廟拝所の東側に建つ折口信夫(釈超空)の歌碑
歌集『春のことぶれ』に所収する「多武峰」と題した5首が刻まれている。