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奈良・鎮護の道
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奈良第25番
南法華寺1
宗 派 真言宗
本 尊 十一面千手千眼観音
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参拝メモ
[参考資料:『日本歴史地名体系』奈良県の地名編 平凡社&現地案内板]

南法華寺は俗に壷阪寺・壷阪観音といい、江戸時代までは坂の字を用いた。創建については、寺伝の『南法花寺古老伝』では703年(大宝3年)壺阪山で修行していた元興寺の僧弁基が、愛用の水晶の壺を坂の上の庵に納め、感得した観音像を刻んで祀ったのが始まりといわれる。その後、元正天皇の時代には祈願寺となり、南法華寺の名を賜った。

寺は平安時代に全盛期を迎え、36にも上る御堂と60以上の伽藍が造営され、『枕草子』には「寺は壷坂。笠置。法輪。霊山は釈迦仏の御住みかなるがあはれなるなり」とあり、『今昔物語集』、『古今著聞集』、『宇津保物語』などにも登場し、南大和の名所として著名であったが、南北朝や戦国の動乱に巻き込まれ、度重なる戦火で大部分が焼失し、境内には三重塔と僅かな諸坊を残すだけとなった。その後は、豊臣秀長の家来本多利久が高取城主となり、寛永(1624~44年)以降は、明治の廃藩置県まで続く藩主植村氏の庇護を受け復興していった。

壷阪寺山門 壷阪寺三重塔
壷阪寺山門(仁王門)。1212年(建長2年)の建立。貞慶解脱上人が建立に係わったと伝わる。
室町、桃山時代に解体修理が行われた記録が残る。昭和にも解体修理が行われが、2008年(平成10年)の台風で屋根が半壊したので、建立場所を現在地に移し、解体修理が行われた。
壷阪寺三重塔(国重要文化財)。明応6年(1497年)の再建。
塔は床縁のない古い様式で、四天柱礎石は白鳳時代頃の心礎を使用。高取城を拠点とした戦国大名越智氏により再建されたと思われるが、越智氏は直後の戦いで敗北、父子ともに吉野に没落した。この戦いで越智氏は壷阪寺に立て籠もったため寺は兵火に見舞われ、殆どの堂宇が焼失したがこの塔は兵火を免れた。
壷阪寺礼堂 壷阪寺八角円堂
壷阪寺礼堂(重要文化財)。創建の年代は不明だが、昭和の解体修理の時、地下発掘調査並びに残存していた部材から、室町時代の姿が判明し、江戸時代の解体修理で縮小されて堂を、室町時代の姿に戻された。 壷阪寺八角円堂(本堂)。現在の八角円堂は1827年(文政10年)再建と伝わる。本尊十一面千手観世音菩薩は眼病に効験があると伝える。
壷阪寺の堂宇
高台から見た壷坂寺の堂宇。中央の一番奥の建物が本堂の八角円堂。手前の石像は天竺渡来の大釈迦如来石像。
壷阪寺多宝塔 壷阪寺灌頂堂 壷阪寺慈眼堂
多宝塔。2002年(平成14年)落慶。本尊は大日如来(平安時代)を祀る。 灌頂堂。2006年(平成18年)落慶。本尊は十一面千手観音(室町時代)を祀る。慶長年間に高取城主本多因幡守が寄進した旧因幡堂の部材の大部分を用い、老朽化した部材を新調し、再建された。 慈眼堂。2005年(平成17年)落慶。本尊は阿弥陀如来を祀る。澤市投身の谷の横にあった旧阿弥陀堂(1751年(宝暦元年)建立)が老朽化したので、古い木材・瓦を有効活用し、現在地に建て直された。
壷阪寺天竺門 壷阪寺中興堂 壷阪寺鐘楼
天竺門。天竺渡来の大観音石像や大涅槃像石のある広場にはこの門をくぐって行く。 中興堂。1992年(平成4年)の建立。1988年の遷化した中興5世住職常盤勝憲師を称え、建立された。 鐘楼。江戸時代の建立。
壷阪寺行者堂 壷阪寺大石堂 壷阪寺大講堂
行者堂。役行者を祀る。 大石堂。1992年(平成4年)落慶。日印石彫文化事業の1つとして、7年の歳月と述べ12万人の人々の手により建立された建立された。最奥部に納骨堂が設けられている。 大講堂。2000年(平成12年)落慶。弘法大師を祀る。堂内には500人以上が収容できる。
壷阪寺境内神社・龍蔵宮 壷阪寺境内神社
境内神社・龍蔵宮 境内神社。この3宮は何の神なのか、案内板が見当たらず不明。
ご朱印
壷阪寺朱印