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滋賀・欣求の道
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滋賀第3番
金剛輪寺
宗 派 天台宗
本 尊 聖観世音菩薩
参拝メモ
[参考資料:『天台宗 金剛輪寺』当山パンフレット、『日本歴史地名体系』(滋賀県の地名編)平凡社

金剛輪寺は湖東三山の真ん中に位置している。寺伝によれば創建は741年(天平13年)聖武天皇の勅願で行基菩薩によって開山されたという。後の世に「生身の御本尊」と呼ばれるようになり、篤い信仰を集めている本尊の秘仏聖観世音菩薩は、行基菩薩が一刀三礼で彫り進めたところ木肌から一筋の生血が流れ落ちたため、観音様に魂が宿った証として、粗彫りのまま本尊として祀ったと伝わる。
  嘉祥年間(848~851年)には、比叡山より円仁(慈覚大師)が来山し、天台密教の道場として中興。中世には近江守護役佐々木氏の厚い崇敬を受け、最も盛況を呈した。鎌倉時代には現存する三重塔や本堂が建立され、木造不動明王・毘沙門天立像、四天王立像を始め、木造阿弥陀如来像、木造慈恵大師坐像(いずれも国重文)などがこの時代に造られている。
  応仁の乱後は佐々木六角氏京極氏など近郊諸武士の補給基地的様相を呈し、戦時には兵糧米、軍資金を強請されることが度重なり、当山も自衛のため、砦を築いている。 織田信長の焼討ちに遭ったが、幸い、本堂、三重塔、二天門などは焼失を免れ、江戸時代中期の頃も18坊の塔頭を数えていたが、明治維新の廃仏毀釈により、境内山地全てが上地に遭い、本坊明寿院一坊となった。

金剛輪寺総門 金剛輪寺本堂
金剛輪寺総門。 金剛輪寺本堂大悲閣(国宝)。本堂内陣須弥壇の束金具の刻名により、1288年(弘安11年)近江守護役佐々木頼綱が再興したことが判明。
金剛輪寺二天門 金剛輪寺明寿院
金剛輪寺二天門(国重要文化財)。室町時代の建立。当初は2層式の
楼門であったが、江戸時代中頃に現在の姿に変えられた。入母屋造・単層・檜皮葺の八脚門。
金剛輪寺本坊・明寿院書院。1978年(昭和53年)竣工。室町時代の様式で建てられている。山畔を利用して南庭・中庭・北庭に分れ、桃山時代から江戸中期までに作庭された庭園があり、国の指定名勝。
金剛輪寺総門を入ったところの紅葉 参道に沿い祀られている千体地蔵 金剛輪寺鐘楼
総門を入ったところの紅葉。 千体地蔵。参道に沿い、道の両脇に祀られている1000体の地蔵像。 鐘楼。吊られている銅鐘(滋賀県文化財)は1303年(乾元2年)の作。
修復中の金剛輪寺三重塔 三重塔金剛輪寺三重塔 金剛輪寺地蔵堂
1246年(寛元4年)に建立された三重塔(国重要文化財)は江戸時代後期以降は荒廃したが、1978年(昭和53年)に復元された。現在平成の修復が行われており、外観はスッポリ覆われて(左の写真)全景を見ることが出来なかったが、進行中の修復の一部は見学することが出来た。屋根は檜皮で葺かれている(右の写真)。 新しく再建されている地蔵堂。祀られている本尊の木道地蔵菩薩像は鎌倉時代と見られ、愛荘町の文化財に指定されている。
本坊明寿院玄関 明寿院境内に建つ護摩堂 明寿院境内に建つ茶室水雲閣
本坊明寿院玄関。 明寿院境内に建つ護摩堂。江戸中期の1711年(正徳元年)の建立。 明寿院境内に建つ茶室水雲閣。江戸時代末の安政年間(1854~60年)の建立。
明寿院南庭。桃山時代の庭園 明寿院中庭。江戸初期の庭園 明寿院北庭。江戸中期の庭園
明寿院南庭。桃山時代の庭園 明寿院中庭。江戸初期の庭園 明寿院北庭。江戸中期の庭園
 
ご朱印
金剛輪寺朱印