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大阪第1番
住吉大社
主祭神 底筒男命 中筒男命
表筒男命 息長足姫命
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参拝メモ
[参考資料:『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編)平凡社]

住吉大社は「摂津一宮」であり、全国に約2,300社ある住吉神社の総本社でもある。「延喜式」神名帳に見える住吉郡『住吉坐神社四座』に相当する。
 その創建の伝承は『古事記』や『日本書紀・神功摂政前紀』などによれば神功皇后のいわゆる新羅出兵に先立ち、神を祀ったとき、住吉三神(底筒男命・底筒男命・底筒男命)は天照大神とともに託宣を下したといい、新羅を破っての帰路この三神を祀る祠を穴門(長門)の山田邑に建てたと伝える。
  現在の地に住吉三神が鎮座した由来は、神功皇后は三神を奉じて大和に帰還する途中、香坂皇子・忍熊皇子の反乱に遭ったとき、三神が「吾が和魂(にきみたま)を大津の渟中倉(ぬなくら)の長峡(ながを)に居さしむべし」と託宣したので、神の教えのままに鎮座せしめた。この渟中倉の長峡の地がほぼ当住吉大社の社地とされる。
 当初の祭神は筒男三神で、それに神功皇后または他の神が加わるのは、神功伝説が形を整える7世紀以降と考えられる。

正面鳥居 反橋
阪堺線「住吉鳥居前駅」を降りると、正面に鳥居が建つ。 住吉大社のシンボル「反橋」。石の橋脚は慶長年間(1596~1615年)に淀君が奉納したと伝わる。
第一本宮(拝殿) 左・第三本宮(拝殿)、右・第四本宮(拝殿)、奥・第二本宮(拝殿)
上の写真は第一本宮(拝殿)底筒男命を祀る。右上の写真、前列の社殿の左は第三本宮(拝殿)。右は第四本宮(拝殿)。第三本宮の後ろは第二本宮(拝殿)。 四本宮はともいわゆる住吉造りと呼ばれる社殿で、いずれも江戸時代の1810年(文化7年)の造営で、国宝に指定されている。
    
第二本宮(拝殿)。中筒男命を祀る。 第三本宮(拝殿)。表筒男命を祀る。 第四本宮(拝殿)。息長足姫命(神功皇后)を祀る。
第二本宮(拝殿)。中筒男命を祀る。 第三本宮(拝殿)。表筒男命を祀る。 第四本宮(拝殿)。息長足姫命(神功皇后)を祀る。
本殿入り口の角鳥居。 御文庫 高倉
本殿入り口の角鳥居。題額は陶製。有栖川宮幟仁親王の筆による。 御文庫。1723年(享保8年)の建立。大坂を中心に江戸、
京の書籍商の株仲間が創建。明治の初めまでに神前に奉納された和漢書籍・洋装本を併せ1万点以上、数万冊
を収める。
第一本宮の東側に立つ2棟の高倉。いずれも1607年(慶長12年)の建立。重要文化財。
石舞台 南門を挟んで東楽所(右側)と西楽所(左側) 東南側入り口の鳥居
石舞台。1607年(慶長12年)豊臣秀頼が奉納した。日本三舞台(四天王寺・厳島神社)の舞台のひとつ。重要文化財。
南門を挟んで東楽所(右側)と西楽所(左側)。石舞台と同様、この3つの建物も1607年(慶長12年)豊臣秀頼が奉納した。重要文化財。 東南側入り口の鳥居。この鳥居は元は慶長年間(1596~1615年)豊臣秀頼が奉納した大鳥居で、1978年(昭和53年)両脚下部の石柱を新たにして、再建された。
奉納された灯篭 奉納された灯篭 奉納された灯篭
境内の燈籠は600基以上あり、江戸時代に大坂・堺はもとより全国各地から奉納されている。上記の写真はいずれも西側正面鳥居付近の灯篭を撮ったものであるが、これら巨大な灯篭は当時としては広告塔の役目も果たしていたらしい。中には頼山陽や池大雅など当時の著名人が題字を刻んだものもあり、これらの灯篭を探すのも一興と思われる。
ご朱印
住吉大社朱印