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大阪第19番
枚岡神社
祭 神 天児屋根命(アメノコヤネノミコト)
比売御神(ヒメノカミ)
斎主命(イワイヌシノミコト)
武甕槌命(タケミガヅチノミコト)
大阪再発見・枚岡神社へ
参拝メモ
[参考資料:『日本歴史地名体系』大阪府の地名編 平凡社]

枚岡神社は『延喜式神名帳』に載る河内郡「枚岡神社4座」で、河内国では唯一名神大社に列せられ、平安末期からは「河内国一之宮」として篤く崇敬された。創建は社伝によれば、神武天皇東征の時、天種子命(中臣氏の遠祖)が、天皇の命を受け、国土平定を祈願するため、東方山上の霊地神津岳の頂に中臣氏の祖神である天児屋根命と比売御神の二神を祀ったのが創祀とされる。
  650年(白雉元年)平岡連らが、山麓の現在地に奉還し、次いで778年(宝亀9年)には春日神社より斎主命(経津主命)・武甕槌命の2神を勧請、合祀したと伝える。768年(神護景雲2年)天児屋根命・比売御神の2神が春日山本宮の峰に影向(ようごう)され、春日神社(現春日大社)に祀られたことから、当社は元春日平岡大社とも称された。
  当社の神主職は平岡氏が代々勤め、次いで平岡連の流れをくむ水走氏が引き継いでいる。1579年(天正7年)織田信長の兵火により社殿が焼失。1607年(慶長7年)豊臣秀頼が社殿を造営。同10年には社領などを寄進したことが記録に残る。

枚岡神社二之鳥居 拝殿への階段
枚岡神社二之鳥居 拝殿への階段。
枚岡神社拝殿 枚岡神社本殿
枚岡神社拝殿。1879年(明治12年)の建立。平成の修造で檜皮葺き
から、銅板葺きに葺き替えられている。
枚岡神社本殿。現在の本殿は1826年(文政9年)の造営。手前から
第二殿 比売御神・第一殿 天児屋根命・第三殿 斎主命・第四殿 武甕槌命を祀る。
1853年(嘉永6年)の再建の大きな石碑 枚岡神社標柱 枚岡神社石鳥居
近鉄奈良線「枚岡駅」の改札を出たところに建つ1853年(嘉永6年)の再建の大きな石碑。「当国一の宮 元春日平岡大社 右なら」と刻まれている。 近鉄枚岡駅の改札を出て、階段を登ると注連柱と注連縄が目に入る。両側の石柱には、「神事宗源」「天孫輔弼」が
彫られている。1922年(大正11年)に奉納された。
東西の参道を南北に横断する道路に建つ石鳥居。1940年(昭和15年)皇紀2600年を記念して建てられた。
摂社若宮社 末社天神地祇社 巽参道(摂末社参道)
摂社若宮社。天押雲根命を祀る。1887年(明治20年)に改築され、現在に至っている。 末社天神地祇社。天津神・国津神を祀る。1872年(明治5年)にもと境内にあった19社と近郡の村々の氏神13社が合祀されている。 創紀2670年(皇紀2667年)に当たる2007年(平成19年)に整備された巽参道(摂末社参道)。
日下小平次の作 神鹿 日下小平次の作 神鹿 参道広場に建つ巨大な石灯篭
拝殿への階段の登り口の左右に神鹿の石像がある。現地の案内板には「祭神の武甕槌命が神鹿に乗って旅立った故事(鹿島立)に因む。1846年(弘化3年)名工 日下小平次の作」とあったが、この神鹿以外の作品についての記載はなかった。 参道から広場に入ったところの左右2カ所に建つ巨大な石灯篭。1907年(明治40年)の奉納。
ご神木「槇柏 老女の悲劇の伝説が残る「姥が池」 楠木正行ゆかりの井戸
ご神木「槇柏」。直径2.1m、周囲6.5m。650年(白雉元年)現在地に社殿を造営し、神津嶽から祭神を還した際、神武天皇が神津嶽に手植えをされたという槇柏の木の枝を新しい社殿の前に挿したと伝わる。
樹齢1300年のこの大木は1961年(昭和36年)、第2室戸台風で根腐れを起こし枯れてしまったため伐採し、地上3mを残し保存されている。
老女の悲劇の伝説が残る「姥が池」。池は土砂で埋もれていたが、平成23年に整備し、姿がよみがえった。
今から約600年前、一人の老女が生活に困って、神社のご神灯の油を盗んで売っていたが、それが発覚したため、池に身を投げた。その後雨の夜になると青白い炎が現れ、村人を悩ませたと伝える。この物語は井原西鶴の短編話など、多くの俳諧やや戯曲に登場し、「和漢三才図会」や「河内名所鑑」にも取り上げられた、
楠木正行ゆかりの井戸。当社に社宝として伝わる『御神徳記』によれば楠木正行が、1349年(正平4年)正月に太刀・物具を献納したとあるが、正行はその1年前の1348年(正平3年)1月の四條縄手の戦いで敗北し、弟正時と差し違え、自害したと伝わっており、1年のずれがある。この時切られた首を洗ったのがこの井戸との伝説もある。
ご朱印