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大阪第16番
叡福寺
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聖徳太子墓
[参考資料:『磯長山 叡福寺縁起』叡福寺パンフレット、『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編)平凡社]

境内北方の高所に営まれている聖徳太子の墓は、叡福寺北古墳、上城古墳とも呼ばれる円墳で、東西径52m、南北径42m、高さ10mの楕円形をなす。墳丘裾は結界石と称する二重の石柵列によって保護されている。

聖徳太子は『日本書紀』によれば、推古天皇29年(621年)2月条「上宮太子を磯長陵に葬る」とあるが、寺伝によれば、太子は622年(推古天皇30年)2月22日に没し、前日に亡くなった太子の妃膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)及び前年12月に没していた太子の母穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとこうごう)共に当地に葬られたと伝え、三骨一廟と呼ばれる。

この墓前には空海(真言宗)、親鸞(浄土真宗)、良忍(融通念仏宗)、一遍(時宗)、日蓮(日蓮宗)、証空(西山浄土宗)等々その時代を代表する名僧・高僧が多く訪れている。


磯長墓正面
磯長墓正面。傍らに宮内庁が建てた立札には『推古天皇皇太子聖徳太子磯長墓』とあり、他の宮内庁管理の陵墓と同様、立ち入り禁止となっている。現在では横穴式石室は閉塞され、唐破風の屋根を持つ御霊屋が入口部を覆っているが、明治時代初期まで石室が南に開口していたことが知られており、廟内への出入りが可能であったらしい。
1879年(明治12年)当時の宮内省から派遣され、廟の修理を行った大沢清臣の『聖徳太子磯長墓実検記』によれば、墓は切石によって構築された横穴式石室で、奥に穴穂部間人皇后の石棺、全面左に夫人、右に聖徳太子が葬られており、前面の2つの棺は乾漆棺であった。これらの棺は格狭間(こうざま)を彫刻した石製棺台に乗せられていたと推測されている。
入口の御霊屋を横から見たところ 墳丘の周りは結界石 墳丘の周りは結界石
入口の御霊屋を横から見たところ。棺の置かれている玄室に向かい、羨道は勾配(石段)があり、それに沿う形で
屋根が3段式のデザインになっている。
墳丘の周りは結界石と呼ばれている二重の石の列が取り囲んでいる。内側の石は空海が一夜で築いたと伝え、高さ80cm、幅30cm、厚さ20cmの凝灰石製。碑面上部に梵字を配する。外側のものは1734年(享保19年)樋口正陳が願主となり寄進したもので、梵字一字及び浄土三部強を彫刻する。

中門跡の礎石

科長岡神社
中門跡の礎石 科長岡神社鳥居 科長岡神社
寺務所の前に置かれている中門跡の礎石。創建当時のものとされている。 科長岡神社。境内の北側に鎮座。天照皇大神・天御柱国御柱命・天児屋根命・品陀別命・八坂大神・道祖大神
・保食大神・菅原道真公・市杵島姫命の9神が合祀されている。
良忍上人の墓 叡福寺の墓地
良忍上人の墓 良忍上人の墓 良忍上人の墓
融通念仏宗の開祖・聖応大師良忍の墓が叡福寺経堂の前に建てられている。良忍は1132年(長承元年)京都大原・
来迎院で没し、来迎院境内に葬られたと伝え、鎌倉時代に建てられたその墓は国の重要文化財に指定されている。
この叡福寺の墓については案内板不の類はなく、建立された年代は不明。
聖徳太子の御陵に隣接した一帯は墓地になっており、古い墓が多くある。この墓は優に2mを超える大きさだが、風化の為、建立年月は確認できなかった。
隔夜堂 三尼公 廟所
隔夜堂 三尼公の廟所 石塔
山門と道を隔てて建つ隔夜堂。本尊の阿弥陀如来石仏は大阪府指定文化財。 隔夜堂の脇に浄土宗・西方院への参道がある。当院は寺伝によると聖徳太子が亡くなったあと、太子の乳母であった月姫(蘇我馬子の娘)・日姫(小野妹子の娘)・玉照姫(物部守屋の娘)の三姫は剃髪し、太子の冥福を祈ったのが創起と伝える。当院の南側の墓地の一角に三尼公の廟所があり、大きな石塔が残る。