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奈良・鎮護の道
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奈良第24番
談山神社
祭 神 藤原鎌足
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参拝メモ
[参考資料:談山神社パンフレット、『日本歴史地名体系』(奈良県の地名編)平凡社]

当社は藤原鎌足を祀る旧別格官幣社で、鎌足の官位に因んで、大織冠社・多武峰社ともいい、江戸時代までは多武峰寺と一体のものであった。『多武峰縁起』によると669年(天智天皇8年)に没した鎌足は阿威山(現大阪府茨木市)に葬られたが、長男定慧が唐からの帰国後の678年(天武天皇7年)、父の墓を大和のこの地に移し、十三重塔を造立したのが発祥である。680年(天武天皇9年)に講堂(現在の拝殿)が創建され、そこを妙楽寺と号した。
更に、701年(大宝元年)塔の東に方三丈の聖霊院が建立され、鎌足の木像を祀った。これにより、塔婆を信仰を中心とする妙楽寺と木像を祀る聖霊院とが相対立するようになり、926年(延長4年)惣社が設けられ、醍醐天皇より談山権現の勅号が与えられたが、これ以降仏教的性格と新道的性格が混在するようになった。
 明治の神仏分離によって多武峯は談山神社となり、聖霊院を本殿、護国院を拝殿、東西の透廊と楼門で囲む一郭を本社とし、従来の講堂を拝所、十三重塔を神廟と名が改められた。

談山神社本殿 談山神社神廟(十三重塔婆)
談山神社本殿(国重文)。もと多武峰寺聖霊院。現在の建物は1619年(元和5年)の再建、1850年(嘉永3年)に大改修が行われた。中央に鎌足(大織冠神像)、左に定慧、左に不比等を祀る。 神廟(国重文)。十三重の塔婆で、唐の清涼山宝池院の塔婆を模して建てられたと伝えられ、談山神社のシンボル的建物。現在の建物は1532年(享禄5年)の再建で、1641年(寛永18年)に大修理が行われている。高さ約17m、木造十三重塔としては、世界唯一の建物。
談山神社神廟拝所 談山神社権殿
神廟拝所(国重文)。元多武峰寺講堂。十三重塔婆の拝所。
現在の建物は1668年(寛文8年)の建立。安置されていた釈迦三尊像は安倍文殊院に現存。この建物がある場所は定慧が創建して妙楽寺
と号した堂があったところである。
権殿(国重文)。970年(天禄元年)に創建、元多武峰寺常行三昧堂。かっては阿弥陀5尊が安置されていた。1506年(永正3年)の火災後に再建、室町時代の様式を持つが、須弥壇擬宝珠に「元和5年(1619年)」の銘がある。


談山神社正面入り口 談山神社楼門 談山神社拝殿、東西透廊
談山神社正面入り口の鳥居。本殿までは階段が一直線に伸びている。 楼門(上の写真)。拝殿、東西透廊(右側の写真)いずれも国重文。旧多武峰寺護国院。1520年(永正17年)の造営、1668年(寛文8年)に再建された。
閼伽井屋 談山神社楼門 談山神社楼門
閼伽井屋(あかいや:国重文)。内部に石組の井戸(摩尼法井)がある。往古、定慧が法華経を講じた時、龍王の出現があったと伝わる。1978年(昭和53年)の解体修理で、元和年間(1615~23年)の再建時の姿に復元された。 西宝庫(上の写真)、東宝庫(右の写真)いずれも国重文。本殿に向かって左右に位置する同形式の校倉造りの宝庫は1619年(元和5年)の造営。
右の2葉の写真は神殿拝所に祀られていた鎌足公神像と梵鐘。 鎌足公神像 銅梵鐘
鎌足公神像。江戸初期の作。この像は明治初年の廃仏毀釈で廃寺になった飛鳥の藤原寺より移された。右側の小さな像は鎌足の化身と言われる勝軍地蔵(室町時代
の作)。左側に不比等像を安置する。
銅梵鐘(奈良県文化財)。「元享三年(1323年)鋳造」の願主銘があり、「応永二十三年(1416年)の追銘」も見られる。
菴羅樹(あんらじゅ)の木 後醍醐天皇寄進の石灯篭 東門
菴羅樹(あんらじゅ)の木。定慧が唐の国より持ち帰った霊木と伝わる。花は無数に咲くが、結実の少ないことから、宗教上の悟りの困難さを示唆する木とも言われる。
説明板には折口信夫の歌が添えられていた。
『人過ぎて 思うすべなし 伝え来し 常世の木の実
古木となれり』
後醍醐天皇の寄進と伝わる石灯篭
竿の部分に南北朝の動乱が始まった「天徳三年(1331年)」の刻銘がある。
東大門(奈良県文化財)。脇塀の垂木の墨書より1803年(享和3年)建立と認められる。杜寺(もりでら)の山門に城郭風の門が用いられた数少ない遺構。
ご朱印
談山神社朱印