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京都・楽土の道
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京都第45番
平等院
宗 派 単 立
本 尊 阿弥陀如来
参拝メモ
[参考資料:『日本歴史地名体系』(京都府編:平凡社)]

平等院は藤原道長の別業(別荘)宇治院を伝領したその子頼通が、末法の初年とされる1052年(永承7年)に別業を改めて、仏殿としたことに始まる。当初は本堂(大日堂)に大日如来が安置されたが、翌1053年(天喜元年)春には現存する阿弥陀堂(鳳凰堂)が建ち、定朝作の丈六阿弥陀如来像(国宝)が安置された。その後、12世紀初期までに、法華堂・多宝塔・五大堂・経蔵・不動堂・護摩堂・円堂などが、頼通以下師実忠実ら藤原一門によって境内に建立されたが、 平安末期の治承・寿永の乱(1180~85年)で本堂が退転したと考えられ、1336年(建武3年)の楠木正成による宇治放火に至るまでの間に、ほとんどの堂宇が失われた。
  平等院は創建当初から天台宗寺門派に連なる寺であったが、1377年(永和3年)興福寺衆徒により動座された神木の逗留、1488年(文明18年)には山城国一揆の国人集会の場所となるなど寺運は衰退。その後は浄土宗、真言宗の寺院が勢力延ばし、平等院の管理権を巡り論争が続いたが、1654年(承応3年)真言宗に変わって天台僧が入山し、現塔頭の最勝院の基を開き、中世末以来、疎遠になっていた天台宗が復帰し、現在に至っている。

平等院鳳凰堂 左サイドから見た鳳凰堂
鳳凰堂(国宝)。平安末期に本堂が亡失してから後からは阿弥陀堂が平等院の中心伽藍とされてきた。この堂が鳳凰堂と呼ばれるように
なったのは近世初期からで、仏像を安置する中堂に付された翼廊が、鳳凰が翼を広げた姿に似るからだという。
源頼政自刃の地と伝える扇芝 源頼政の墓
源頼政自刃の地と伝える扇芝(上の写真)と最勝院境内に建つ源頼政の墓(右の写真)。1180年(治承4年)5月、以仁王の令旨を奉じ、
平家打倒を掲げた源頼政は宇治で決戦に及び、しかし準備が整う前にことが発覚し、多勢に無勢平等院の戦いで敗れ、辞世の和歌を残し
自刃した。享年76歳だった。辞世の歌は『埋もれ木の 花咲くこともなかりしに 身のなる果てぞ 悲しかりける』
平等院出入口門 平等院観音堂 塔頭・浄土院
東側にある出入口門 平等院観音堂(国重文)。1185年(文治元年)頃に創建当時の本堂跡に再建されたと伝わる。 塔頭・最勝院。天台宗寺門派聖護院末の寺院で、1654年(承応3年)京都東洞院六角勝仙院(住心院)の僧が平等院に移り、その住庵を最勝院と呼んだことに始る。
塔頭・最勝院 羅漢堂 鐘楼
塔頭・浄土院。浄土宗の寺院で、明応年間(1492~1501年)浄土宗の栄久上人が、平等院修復のために開創したと伝える。  羅漢堂(宇治市指定文化財)。1640年(寛永17年)に
 茶師・星野道斎とその息子たちが建立。
鐘楼。吊られている梵鐘は創建当時に鋳造され、日本三名鐘の1つとされるそれではなく1972年(昭和47年)に復元された2代目で、本物(国宝)は保存のため、平等院ミュージアム鳳翔館で展示されている。
石像層塔 春日型石灯篭 平等院旧南門
境内に建つ石像層塔。鎌倉時代のもので花崗岩の一柱に統一した瀟洒な均整美を誇り、民間伝来の石塔として、随一の造形美を有する。  境内に建つ春日型石灯篭。鎌倉時代初期のもので、
 灯篭の各部に欠失がなく、当初材が現存する唯一
 の遺品。
平等院旧南門。伏見桃山城からの移構と伝える。主要部材は赤樫の巨木で、固く火に強く、戦国期の城門などに使用されたが、現存が確認されたのこの門が最初で、現存する最古の城門「医薬門」として、注目されている。
 
ご朱印
平等院朱印